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Fukushima Fragments

2011-2015・日本

Ostlabo · 福島の制限区域内での風とガイガーカウンターの音声

「当初、僕が福島を撮る深い理由なんてなかった」

そう気づいたのは、7月も終わりに差し掛かった頃だった。海外のメディアが徐々に津波・原発報道から手を引いていく中、 福島での仕事を終え、帰路についた。しばらくは依頼された仕事でここに来ることもないだろう。

〜帰国〜

3月11日、僕はリビヤにいた。ニュースをチェックすると、日本で地震が起こり、津波が東北沿岸を飲み込んでいく映像が目に飛び込んできた。唖然としていると、次に飛び込んできたのは原発爆発の映像だった。頭が真っ白になった。

「帰りたい」

リビヤでの取材を終え、日本にたどり着いたのは10日後のことだった。

〜理由のない取材〜

3月の終わりから、僕は福島を重点的に取材し始めた。当初は、欧米の雑誌や新聞から依頼を受け、日々のニュースを撮影していた。しかし、取材を続けても、自分がいったい何を撮っているのか理解することすらできずにいた。目の前に広がる光景に圧倒され、何故これを撮っているのかと自問しても、

「自分の国だから、何かできることをしたい」

そんな曖昧な答えしか、頭に浮かばなかった。

結局僕は、福島を撮る深い理由を持ちあわせていなかった。会津地方は大学時代によく訪れていたが、浜通りは縁もゆかりもない土地で、知人すらいなかった。

理由がないからと投げ出すことは簡単だったが、それでも「何かしたい」という自分の中の衝動を抑えることができなかった。いったい自分は何のために写真を撮っているのか。そんな根本的なところまで立ち返らなくてはならなかった。結局僕は、 放射能という目に見えないモノへの恐怖と、大きすぎる規模の災害を前に、我を失っていた。

東北で見る光景が特別ではなくなってきた7月下旬、僕はパニック状態から抜け出しつつあった。そして、普段から「写真なんて残らなければ無意味」という気持ちで写真を撮ってきたこと、そして取材をした被災者にかけられた言葉を思い出した。

「子供たちのためにも、ちゃんと撮っておいてくださいね」

その時、自分の中に撮る理由が生まれた。

次の世代が、この災害が何であったのかを理解するための道具を残したい。僕が撮る写真たちは、今見られる必要はない。そう思って僕は福島に戻った。

〜かけら集め〜

僕は福島で「かけら集め」を始めた。今まで使ったこともなかった大判カメラを担ぎ、すぐに消えない放射能と同じように、そこに残るであろう時間を切り取っていった。写真は瞬間を記録する術ではあるけれど、こと福島に関しては、時間を切り取ろうと試みた。人、物、少し変わった風景、今も残る奇妙な風景、 美しい時間、そして惨状。自ら用意した箱に、かけらを集めていった。箱がいっぱいになった時、それらと出会うことになる人たちは、この出来事をどのように理解するのだろう。

そんなことを考えながら、僕は福島をさまよった。

〜無機質な機械〜

ガイガーカウンターを持ち歩くのが日常になった。今まで、こんな日が来るとは思いもしなかった。数値が上がると緊張し、下がると気が緩む。そんな状態の繰り返しで1日が終わる。特に線量の高い地域に行くと、生汗をかいた。高線量地域で人を見かけることは少なく、人の気配が消えた地域はとても静かで、逆にそれが気持ち悪かった。町ごと、村ごと、ブラックホールに吸い込まれてしまったかのような、そんな錯覚に陥った。無人となった場所で、新たな生命の営みが始まる可能性は高くない。自分たちの居場所を否定されるということが、とても残酷に思えた。

取材を続けるうちに知人も増えた。取材で出会った人たちがほとんどで、いまだに撮影させてもらっている人もいる。多くの人が、いつ収束するとも分からない原発事故と、これからの生活への不安を抱いていた。

東京から福島に向かうと、まずはいわきに立ち寄る。通っているうちに顔見知りになった漁師の鈴木さんは、ウニ獲りの名人と呼ばれていた。

「今の時期はうまいんだぁ。せっかくだから食べさせてやりたいんだけどなぁ。でもなぁ…。それにしても、漁に出れないとやることがないんだよなぁ…。」

そう言うと悔しそうに窓の外に視線をやった。美空ひばりの歌で有名になった塩屋崎灯台の麓で、漁に出られないもどかしさと、中々戻ってこない観光客のことを思う気持ちを抱えて日々を過ごしていた。

鈴木さんのところで世間話をした後は、磐越自動車道を通り本宮市に向かうのがお決まりのコースになった。線量の高い浪江町の津島地区から、牛とともに逃れてきた三瓶さん夫妻が、弟の今野剛さんと共同経営の酪農場を開いていた。

「まだ放射性物質が検出されたことはないけど、毎日不安よねぇ…。酪農やれなくなったら何やればいいのかねぇ。生き甲斐って言ったら大げさかもしれないけど、やっぱり生き甲斐なのよねぇ…。」

妻の恵子さんは、愛嬌のいい笑顔を不安で曇らせつつ言った。

その笑顔を見るたびに、無機質な機会を手にしていることが、非人間的に思え、僕は複雑な気分になった。そんな僕を見ても、いつもと変わらず笑顔の三瓶さん夫妻。何とか踏ん張って今日も生きている彼らの目に、この機械は、そしてそれを持っている僕は、どのように映っているのだろう。それでも僕は、この道具無しで福島を取材することができない。

〜色の無い桜〜

「満開になるのは来週ぐらいだなぁ」

「そうですねぇ」

「本当ならこのへんは酔っぱらいが増えるんだけど、まぁここで宴会するわけにもいかないからなぁ」

警戒区域が解除された福島県富岡町で撮影をしていたら、たまたまそこにいた男性とそんな会話になった。元原発作業員だというその人は、三部さんと言った。今は郡山市の借り上げ住宅に避難しているが、花見も兼ねて近所にある自宅を見にきたという。週が開ければ満開になるだろう。だが、目に入る立入禁止のバリケードが、ようやく訪れた春を悲しげなものに変えていた。

ポケットに入れたガイガーカウンターのアラートは、1・5マイクロシーベルトに設定していた。除染が進む桜並木の周りなら、音が鳴ってうるさくなることもないだろう。それでも長居するのは憚られた。ちょうどその頃、福島第一原発の冷却装置停止のニュースが流れていたことを後で知った。携帯電話の電波が繋がりにくい場所で桜を眺めていた僕らは、そんなことを知るよしも無かった。ただ、消防車がけたたましくサイレンを鳴らして近くを走っていく音が聞こえ、なんだか胸騒ぎがした。

「火事でもあったんだろうか」

三部さんののんびりした声は、そのまま静寂に包まれ、辺りはまた無音の世界に戻っていった。

〜変われない生活〜

桜を一緒に見ていた三部さんが口を開いた。

「この状況が落ち着くにはまぁ時間がかかるだろうけど、結局自分たちも、今の状況に甘んじてるところがあるんだよ。補償金はもちろんもらえないと困るし、それがないとやっていけない人も沢山いる。実際に家も失って、生活基盤もなくなった。でもなぁ、それで働かなくても金が入るようになって、飼い殺し状態になっている人も沢山いるんだ。やっぱり人間はちゃんと働かなくちゃだめなんだよ。もちろんみんな被害者だけど、このままじゃ本当にどうしようもなくなっちまうよ」

変わらない状況を目の前にして、自身にも言い聞かせているような言葉に聞こえた。

翌週の新聞に、三部さんと眺めていた桜についての記事を見つけた。ちょうど満開を迎え、立入禁止が解けた地域に花見に来る人々の姿がある、ただ9割の桜はいまだバリケードの向こう側。そんな内容だった。立入禁止が解けたとは言え、桜が散ればまた静寂の世界が戻るのだろう。

最後に三部さんの写真を1枚撮り、その場を後にした。時が止まった世界は、記憶の中で灰色になっていってしまうような、色を感じづらい世界でもあった。記憶の中の色のない世界が止まったまま現実に存在し続ける、それはそのままこの原発事故を象徴しているように思えた。

–トンネルの向こう–

日本人として、福島を取材するのはとてもデリケートだ。放射能への恐怖からだけではない。何故なら福島で出会う人たちがどのように感じるかをどうしても気にしてしまうからだ。

県外に避難している人がいる一方で、仕事、金銭的な問題、土地への愛着など、福島には様々な理由でとどまっている人たちがいる。取材をしてきて、日本政府はあえて多くの人たちを避難させてなかったのではないかと感じることもあった。

福島に住んでいる人たちの感情を考えると、東京から来た余所者の僕が、「福島は危険だ」と単純に言うことはとてもはばかられる。危険な場所に住みたい人などいるはずがない。ただ、そこで生まれ、そこに生活があれば、土地から離れるという選択がない場合もある。望んでとどまっている人も沢山いるだろう。新しい土地で生活を始めたが、中々なじめないでいる人たちもいる。

東京が選ばれたオリンピックの招致レースで、安部首相は福島の汚染水は港湾内でブロックされていると言った。水というのが完全にブロックできるものとも思えない。何が真実なのかは分からない。オリンピック招致が決まって沸く東京のニュースを見ながら、

「私たちは棄民なんじゃないかな」

と呟いた福島の人の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。「復興」を掲げる五輪によって、被災地の工事に遅れが出ているのは周知の事実だ。

数年先がどんな風になるのかさえ僕には予想すらできない。

–初めての海辺–

仕事を終えた三瓶仙幸さんと、原発から25キロほど離れた南相馬の海外に車を走らせた。仙幸さんは中学校の体育教師で、野球部の監督でもある。僕が彼に出会ったのは、3年前のことだった。震災の前、今では誰も住んでいない浪江町の海岸近くに彼は住んでいたが、教師の仕事を続けるため、南相馬に引っ越した。

安部首相が汚染されていないといった海辺で彼の写真を一枚撮った。すると、仙幸くんが口を開いた。

「 震災があってから、海にこんなに近づいたの初めてなんです。海に来たくなかったというわけではなくて、3年半経って、初めてこんなに近づいたというか。嫌というわけじゃないんです。ただ何となく機会がなかったというか…。」

仙幸くんは続けた。

「震災の時は学校で働いていて、津波が来る前に避難したから、僕は津波を見ていないんです。ただ今こうして海を眺めていて、それを見た人や逃げ遅れた人にとっては、この海はどう見えたのかなって思っただけです。別にそれが嫌とか嫌じゃないとかではなくて、ただそう感じたというか…。3年半も海を見なかったんですねぇ…。」

日が沈むにつれ、彼は口を閉ざした。彼の姿がゆっくりと景色の中に吸い込まれていく。それはまるで彼が色のない世界に消えていくようにも感じられた。静寂と色彩の無い世界。それは僕が最初に福島を訪れた時に感じたのと似た感覚だった。

–写真をみることになる人たちへ–

すでに震災から4年以上が経過した。状況は中々変わらず、人々は粛々と生活を続けている。僕が唯一できることは、撮りためた写真を後世に残そうとすることだと思う。この災害が自分たちにとってどんな意味を持つのかを考えるために。そして、次の世代の人達が、この災害がいったい何であったのかを理解し、過去を振り返ることのできる道具を作るために。

ウィンストン・チャーチルは言った。

「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」と。

これらの写真が、何か意味を持ってくれたら嬉しく思う。

岡原功祐

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